神亀2年(西暦725年)6月下旬、岩水寺は行基様により、開創されたと伝わります(遠江国風土記伝)
ただ・・・、行基様は近畿から出た事は無いと。
とある先生より聞きました。。。
と、いう訳で。今回は何故行基開創となったのかを考えてみたいと思います。
ちなみに私見でありますので、何の確証もありません(笑)
まあ、読み物的な物としてご笑覧下さい
実は岩水寺の行基様に関わる歴史には続きがあります。(遠江国風土記伝、及び岩水寺古文書より)
行基菩薩は、三間四面の御堂を建て、自ら刻んだ薬師如来の尊像を安置しました。
また弟子の僧一人はその地に65年住みました。
これが瑠璃山の草創です。
①弟子が65年住んだ、つまり弟子はおそらく10代ぐらいの若者であったと。
また岩水寺の周りには古墳群が点在しております。
境内にも、将軍塚古墳という古墳があります。
そして岩水寺より800メートル程南の天竜浜名湖鉄道の踏切周辺は、旧境内地です。
(昭和20年代に市に寄付してしまいました。。。)
その踏切から300メートル程東側では古い、大規模な窯の跡が見つかっております。
発掘に関わった先生がおっしゃわれるには、これだけの規模の窯は、当時お寺か有力豪族がいたという証であると。
②昔から有力な豪族が住んでいた。
ちなみに行基様といえば、その当時はスーパースター。
庶民に大人気でした。
実際時の有力者に招かれ、多くの寺院を建立したり、橋等の土木工事をされておりました。
③行基様はその当時知名度抜群。庶民の憧れ。また土木工事や寺社建設の主とした仲間が多くいた。
岩水寺のご本尊、お薬師様は体を治してくださる仏様。
昔は医者も良い薬もありませんでした。
人々は病気を恐れていました。
岩水寺近辺でも1150年程前に飢饉や疫病が大流行しました。
それを救ったのが岩水寺の時の住職、地安坊覚仁僧都です。
その後神様として現在でも祀られている程です。
④民衆を救う為、薬師如来を祀る必要があった。
以上を踏まえた上で、私は仮説を立てました。
行基菩薩は岩水寺には来てはいなかった。
ただ行基様からお薬師様とお金をもらい、岩水寺を建立したと。
このお薬師様、行基菩薩作です。
ただ中国で作った洋服のボタンを、日本で付けたら日本製というのと同じでして。
行基様の弟子の仏師が作ったお薬師様。
目を行基様が書いたら、行基作であると。。。
そして行基様に魂を入れて頂くと。
さらにお金ですが、出所は岩水寺近辺の有力豪族であると。
そして、弟子はその2男3男なりの息子であると。
要するに、豪族はこの地を治めたい。
そこで都で活躍される行基様の元へ、息子を修業に行かせる。
お堂は豪族が建てる。もしくは行基様に寄進した上で、都の大工さんに建てて頂く。
ちなみにお金払ってお寺建立された方を、開基といいます。
この場合だと行基開基の寺院といいます。(元々の出所は含まない)
行基様からお薬師様を頂いた息子が帰ってきて、65年住む。
こんな感じでしょうか。
開創はまだしも、その後田村将軍が来て岩水寺に泊まっております。
将軍様が来るぐらいのお寺であったということです。
また開創して100年後には、12の谷を作ったり、お寺を360坊作ったりしております。
さらにそれをなした住職は神様として祀られてると。。。
それを考えると、地元の有力豪族が関係していたと。。。
まあ、あくまでも推測(妄想)。
和尚の推測(妄想)であります